好きだから頑張れるって何なのという話

頑張る幸せって?

世間というか人間というか、頑張ることこそが美しく、素晴らしいこととされている。

 

何においても向上することこそが幸せ。

停滞は怠惰。怠惰は悪。

 

目標のために努力をし、その努力が報われることが幸せだと。

だが、そもそも今つらい思いをしてまで得る幸せってなんなのか。

 

好きという感情

「好きこそ物の上手なれ」という言葉があるように、好きという感情こそが頑張る動力源となるからつらい思いでもできるのだろうか。

 

私にはそんな熱意を持てるものがないのだろうなと思った。

 

私が何事においても、これをしたい、あれをやろうと思えないのは、結局のところ好きじゃないだからなのだろうか。

 

今まで、趣味については「好きなもの」だと思っていた。好きだから続けていると思っていた。

でも、団体に所属して、私より練習を頑張り、より良くなるために語り合う友達を見て、私の「好き」は別に好きではなかったのかなと思うようになった。向上心がないのなら好きではないのではないかと。

そのことに気づいてもなお頑張ろうと思えない自分であることがますます嫌だった。

楽しく活動するだけではどうやら彼ら彼女らにとってはだめらしい。

 

好きなものも好きな人も嫌いなものも嫌いな人も特にない。

私が何事に対しても頑張れないのは、たぶん何事にも興味がないからだ。

 

学問について趣味について語る友達。嫌いな人の悪口。

私にはそんな風に話せるものはない。

周りの会話を聞くたびに、自分には入ることができない、居場所がないことを感じる。

 

それに気づいたとき、自分がとてもつまらない人間であることが分かって、悲しく、消えたいと思う。

 

誰が何を言おうと思おうとしようと私はそれを聞こうと思う。

でも、「頑張る=正義、への違和感」という自分の意識が認められることはないだろう。

 

 

 

「生きている」ということが怖いという話

自分が、現在この世界に存在していることが気になってなかなか眠れないことがある。

それは、生きていること、そのものへの疑問からではないかと、最近考えるようになった。

 

心臓

心臓は、不思議なもののひとつだ。

動かそうなんてこれっぽっちも考えていないのに動いている。

血液を全身に送り出して、私は生きている。

 

いったいなぜ心臓は動いている?

私は、だれに、”何”に、「生かされて」いる?

 

これが、私のからだなんてそんなのは嘘だ。

だってコントロールできていないではないか。

自分が意図しない動きが、自分の中で起きている。

 

自分の中に、自分を動かす、自分以外のものが存在する。

 

いや、もしかしたら、私の意識こそがこの体に寄生しているにすぎないのかもしれないのではないか。

 

ゾッとした。

ひたすらに気持ち悪く恐ろしかった。

 

そのとき、自分と世界の間に膜が張られるの感じた。

目には見えない薄い膜だ。

 

スクリーンを通して映画を見るかのような感覚。

この世界のすべてが舞台セットであり、私はそこに立つ人形であると。

”何か”に動かされているにすぎないにかかわらず、自らの意思を持って動いていると考えているのだろうと感じるようになった。

 

 

朝、目が覚める

眠りについて目が覚めるということも恐ろしいことの一つだ。

いつの間にか意識を失い、いつの間にか取り戻す。

 

私の本体が意識だとしたら、眠っている間の私とはなんだ?

絶えず心臓は動き、意識のない間も生かされている。

気持ち悪い。

 

どうにも気持ち悪くて、意識を戻すのももう嫌になって、「このまま目が覚めませんように」と願いながら布団に入る。

当たり前、だが目は覚める。

ああ、また生かされていたのか、と。

 

普通に「生きている」

生きているということの何が普通だというのか。

こんなにも恐ろしくて気持ちの悪いことをなぜ平気な顔で続けられるというのか。

 

でも、人間は生きたいと思うのが通常らしい。

希死念慮とか自殺願望なんてものは、病気だとされる。

普通ではない、と。

 

命は尊い

生きていることは素晴らしい。

などと。

こんなにもわけがわからないものに対して何を言うか。

 

反吐がでる。

 

 

私は、思う。

何も考えなければ、世界はもっと単純だとは思う。

 

毎朝起きて、ご飯を食べて、勉強をし、友人と会話をして、インターネットを少し見て、布団に入る。

代り映えのない毎日。されど素晴らしい毎日。

そうだろう。そうなのだろう。

 

でもそこで感じる違和感らしきもの。違和感から生じる恐怖と思えるもの。

 

その感情をあらわすぴったりな言葉を私は知らない。いや、これが感情なのかもわからない。思考を、感覚を、覆っていく黒いもやのようなもの。とりあえずは感情と表現する他ない。

 

私は何に疑問を持っているんだ?何がそんなにも気になるんだ?

 

わからないわからない。

 

その疑問を捨て去ればもやは消え去るのか?

 

だとしても捨てるのは嫌だ。

疑問を持たなくなったとき私は死ぬと思う。

この文を書いている”私”は死ぬと思う。

 

この”私”が死ぬくらいならビルから飛び降りて死んだほうがましだ。

 

私は、そう思う。

 

でも、問題だ。

この黒いもやを抱えたままでいると、もやのことしか考えられなくなってきた。

少しずつ、私を蝕んでいく。

私が壊れるのが先か、壊れないように私が”私”を殺すのが先か。

 

思考を覆う形のない何か。なら、形を与えればいいのか?

そのために、言葉という道具を用いて、少しでもこれをまとめて整理して自分の一部として大切に保存したいと思う。

 

いつか、私が死ぬ時まで。